2012年御翼10月号その4

三浦綾子「道ありき」の愛と希望

 三浦綾子記念文学館 特別研究員の森下辰衛先生(元福岡女学院大学助教授)は、かつて女学生に、三浦綾子さんの自伝『道ありき』の感想文を書かせたことがある。すると、複数の学生が、「三浦綾子さんを導いた男性たちはなんて素晴らしい人たちなのだろう。綾子さんはなんて男運がいい人なのだろう。それに比べて、わたしはどうして男運が悪いのだろう、先生教えてください」と書いてきた。「綾子さんは本物でなければ受け入れない、という真剣な求め方をしていたからだ」というのが森下先生の答えだという。
 三浦綾子、旧姓・堀田綾子は、大正11年(1922)、旭川市に生まれ、77年の生涯殆どを旭川市で過ごす。1年半ほど、歌志内(うたしない)という炭坑町で小学校の先生をした。16歳11か月で先生になった。ちょうど日中戦争が始まった頃であった。彼女は何の疑いもなく、「あなたたちはお国のために、天皇陛下のために戦争に行くのですよ」と子どもたちに教えた。しかし、昭和20年8月15日、敗戦の日を境に、軍国主義は間違っていた、と米軍に言われる。それまでの価値観を捨てさせられた堀田綾子は、私はもう子どもたちを教えることはできない、何も本当に信じることはできないと、敗戦翌年の3月、小学校の先生を辞める。やがて彼女は、二人の男性と同時に口約束で婚約する。結納を先に持ってきた方と結婚すればいいや、などとふざけたことを考えた。ところが、そのうちの一人が結納を持ってきた4月13日、突然彼女は高熱を発して倒れる。それが、その日から13年に及ぶ肺結核と脊椎カリエスが発病した日だった。当時、肺病は死の病だった。綾子さんは、自暴自棄になるが、三浦綾子さんの自伝小説『道ありき』(道があった)は、そんな自分にも、ずっと以前から、神様が道を用意してくださっていた、という内容になっている。「誰もが同じであるから、人生を投げ出してはならない」というのが、『道ありき』のメッセージなのだ。
 最初の恋人、西中一郎さんは、婚約を解消しようと結納金を返しに来た綾子さんを責めたりしなかった。綾子さんがどんなに傷つき、どんな気持ちで婚約を解消しに来たか、痛いほど分かっていたからである。綾子さんはその晩、西中家に泊まるが、夜中、入水しようと家を抜け出し、海まで歩いた。しかし、水に入ったところで、後ろから来た人にガッと肩をつかまれる。それが西中さんだった。西中さんは綾子さんが出て行くのに気づき、これはまずいと思って、追いかけて来たのだ。その時に、綾子さんは言い訳を言った。「夜の海を見てみたかったの」と。西中さんは綾子さんを背負って砂山に登り、「海ならここからでも見えるよ」と言って、一緒に砂山に腰を下ろしてくれた。海など真っ暗で見えない。翌朝、斜里の駅で、西中さんはまた会う人のように、手を振って何も言わずに別れてくれた。しかし、彼の頬には、涙の跡があった。
 西中さんは、ある意味、放蕩息子の母親のような存在だと、森下先生は言う。その気持ちが全部分かっていて、全部赦して、全部認めて、全部与えて送り出す。「真っ暗な海の中で、西中さんの背中に背負われた時、私の中から不意に死神が離れて行ったような気がした」と綾子さんは『道ありき』の中で書いている。西中さんの愛を通して、神の愛の一つの姿がはっきりと現われている。それは、赦して、送り出して行く、すべてをそのままで受け止めて行く。「わたしは、死にたいと思うあなたを、真っ暗な海の中で背負うことができるのだ」という神からのメッセージがそこにはある。(西中さんは毎晩祈る人だったという。クリスチャンかもしれない。)
 自殺未遂の後、旭川に帰った綾子さんを待っていたのは、クリスチャンの前川正さんである。前川さん自身も肺結核で、北大医学部を休学中であり、先は長くはなかったが、幼馴染の堀田綾子を救おうと決めていた。もっとまじめに療養してください、自分を大切にしてください、と前川さんは綾子さんにお願いする。ところが綾子さんは、「まじめってどういうこと?私は戦争中、まじめに生きていた。その結果が、傷ついただけじゃないの」と言って、結核なのに酒・たばこをするという不真面目な療養態度だった。そのとき前川さんは、小石を拾い上げると、自分の足を続けざまに打った。綾子さんを救う力のない自分を罰していたのだった。さすがの綾子さんもそれを見て、「この丘の上で、わが身を打ち続けた前川正の私への愛だけは信じなければならない」と思ったという。「この丘の上で、わが身を打ち続けた私への愛」これは大切な表現である。前川さんの背後には、ゴルゴタの丘の上でわが身を打ち続けたキリストの愛があったのだ。そして、前川さんがくれた聖書をむさぼるように読み始めたのだった。
 前川さんの愛は、ある意味で、父親的な愛だったと思う、と森下先生は言う。そのままで受け入れるのではなくて、あるべき姿において愛して行くというのだ。子があるべき姿になるためには、自分の体を投げ出すような愛なのだ。綾子さんは1952年7月5日、札幌医大病院のギプスベッドで洗礼を受けた。その後、2年たたないうちに、前川さんは肺結核の手術が失敗して亡くなる。そして現われるのが、外見が前川さんにそっくりな、三浦光世さんであった。
 これら男性の共通点は、イエス様のような愛で綾子さんを愛したことであった。その愛によって、綾子さんに正しく接し、彼女は救われたのだった

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